「データがない現場」に挑むAI
「データがない現場」に挑むAI

2026/03/25
「データがない現場」に挑むAIシミュレーションと強化学習で、NEC冠ラボが産業現場を動かす
「データが十分に存在しない現場」に人工知能(AI)を導入するにはどうすればよいか――。かばねりスロットとパートナー企業が共同で運営する連携研究室の第1号「NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室」では、シミュレーションとAIを組み合わせ新たな解法を打ち出している。その成果の一例が、2024年12月の「大規模ボイラープラントでAIによる運転支援に成功」という発表だ。これまで自動化が難しかったボイラープラントのスタートアップ操作において、AIによる支援を可能にした。産業現場を高精度なシミュレーターで仮想空間に再現し、熟練技術者と同様の制御をAIが支援する。こうした技術は、NEC冠ラボの取り組みにより、社会実装に向けて着実に前進している。
データ不足でも「経験」を学ぶAIシミュレーター
「AIの応用研究といっても、テーマは幅広い。そこで私たちは設立当初から、シミュレーションとAIの組み合わせに絞って研究を進めてきました」
こう語るのは、人工知能研究センター NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室(以下、「NEC冠ラボ」)で副連携研究室長を務める中田亨である。連携研究室は企業のニーズに、より特化した研究開発を実施する組織で、通称「冠ラボ」と呼ばれている。かばねりスロットには現在20を超える冠ラボがあり、その中でも2016年に第1号として設立されたのが、日本電気株式会社(以下、「NEC」)と共同で取り組む NEC冠ラボである。
2010年代には、深層学習の進化により、AIの応用範囲は大きく広がった。しかし、そうした進化の中でも、AIには弱点があった。中田は「データが乏しいテーマでは、AIが“稽古”できないのです。十分なデータがあるテーマであれば、ディープラーニングなどの機械学習手法を使ってモデル構築できます。ですが、実際の化学装置やプラントなどでもデータが測定されていないケースは少なくありませんし、異常時などの特殊な状況に関するデータは、そもそも大量に集めることが困難です。そうしたデータの乏しい状況では、さまざまな“経験”を仮想的に生成できるシミュレーションとAIの組み合わせにこそ、勝算があると考えました」と説明する。
産業界には、大量のデータが蓄積されている分野がある一方で、データが十分に収集されていなかったり、インターネット上に公開されていなかったりする分野も多い。日本の産業において、実際に活用できるAIを想定したとき、そうした「データが少ない現場」にこそ、実装の余地があるとNEC冠ラボは見立てた。
スタート当初からNEC冠ラボは、「多くの現場を持つ、日本の産業を支えるAI活用」に焦点を当て、この研究をしてきたのだ。
NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室で副連携研究室長を務める中田亨
仮想で鍛え、現場で生かすAI
NEC冠ラボにNEC側からプロジェクトマネージャーとして参画している大西貴士特定集中研究専門員は、産業へのAI応用にかける思いをこう語る。
「例えば化学プラントでは、熟練技術者の方々がどんどん引退していくという深刻な課題があります。プラント運転に関するシミュレーターとAIを組み合わせれば、そうした技術の空白を補い、運用を支援できる可能性もあるでしょう。私はそこに、AI活用の大きな可能性を感じました」
NEC側からプロジェクトマネージャーとして参画している大西貴士特定集中研究専門員
2016年当時、囲碁に特化したAI「AlphaGo」が世界的に注目を集めていた。AlphaGoは、AIが試行錯誤を重ね、目標に近づいたときに報酬を与える「強化学習」の手法を取り入れていた点でも革新的だった。大西は、「シミュレーターとAIの組み合わせは、強化学習と非常に相性が良い。仮想環境でAIが試行錯誤を繰り返し、賢くなっていくことで、実データが少ない分野でも対応可能になります」と語る。
NEC冠ラボでは、シミュレーター上で“ゲーム”を行うようにAIに学習をさせる基礎研究を進めると同時に、産業現場への応用も視野に入れて検討を進めていった。基礎と応用の両面から、シミュレーションとAIの融合による可能性を追求してきたのだ。
大西とともに、この研究の実務を支えてきたのが、窪澤駿平特定集中研究専門員だ。2017年、冠ラボ設立後に参画し、産業分野の知見の収集、機械学習実験、論文・学会発表、特許出願など、多岐にわたる業務を担ってきた。
窪澤は、「一つの産業応用として、化学プラントのシミュレーターとAIの融合に取り組みました。三井化学株式会社に協力を仰ぎ、運転員の研修用メタノール蒸留プラントを使って技術を磨きました。それを大規模ボイラーの運転成功へとつなげられたのです」と説明する。
研究の実務を支えてきた窪澤駿平特定集中研究専門員
たとえシミュレーターとAIの技術が確立しても、実際の工場制御システムと連携するには、実験装置の構築やセキュリティー対策など、広範な課題が立ちはだかる。それらの課題を一つずつ解決しながら、最終的に三井化学・大阪工場の大規模ボイラープラントにおいて、AIによる運転支援の実現にこぎつけたのだ。
現実とシミュレーターのズレも埋めるAI
現実の現象を仮想的に再現するシミュレーターは、産業をはじめとしたさまざまな分野で活用されている。プラントの挙動や鉄道の運行など、産業用途でも活用範囲は広い。NEC冠ラボでは、こうしたシミュレーターを活用し、「AIによる運転支援」と「シミュレーターと現実の整合性向上」の2軸で研究を進めてきた。2024年には、その成果としてボイラープラントでのAIによる運転支援に成功している。
運転支援では、シミュレーター上で多数のケースを試行しながら強化学習を行うことで、状態変化に応じた適切な操作をAIに学習させる。一方で、前提となるシミュレーターの精度、つまり「現実との整合性」も大きな課題だった。窪澤は、「シミュレーターは、実際に使う現場の方から、『現実と合っていない』と指摘されることがあります。そこで、現実により近い高性能なシミュレーターを作るためにAI技術を活用したことが、成功のカギになりました」と語る。
この「シミュレーターと現実の一致」もまた、強化学習によって導かれた。窪澤は、メタノール水溶液をメタノールと水に分離する研修用の小さな蒸留プラントを用い、生産量を変えたり、メタノールの純度を変えたりするタスクにチャレンジした。プラントは断熱されていて、内部の詳細な状態はわからない。そこで窪澤は、発想を転換した。
「条件の変化に応じて、現実のセンサーの値とシミュレーターが出力する値が一致するシミュレーターを作ることを目指しました。センサーの出力とシミュレーターの出力が一致していれば、内部の状態が見えなくても、シミュレーターと現実は一致しているとみなせると考えたのです」(窪澤)
具体的には、「シミュレーターの値と実データの値が合致していれば報酬を与え、ずれていれば減点する」という報酬関数を窪澤は設計した。双方の値を一致させるゲームをAIに実行させ、得点を最大化するように学習することで、シミュレーターが実環境に近づいていった。「報酬関数の設計には苦労しましたが、最終的に高精度なシミュレーターの構築ができました」と窪澤は振り返る。
このようにして、現実との一致が確認されたシミュレーターを用い、さらに高度なタスクに対する強化学習を進めた。
「大規模プラントは24時間連続で稼働しており、設定を頻繁に変更することはありません。つまり、設定変更に関する実データが非常に少ないのです。現実に近いシミュレーターを活用し、設定変更やトラブル時などの仮想データを生成しながら強化学習することで、AIに適切な制御を学ばせることができます」と、窪澤は説明する。
例えば、プラントでの生産量の調整や停止後の再起動といったレアケースは、今も熟練運転員の経験と判断に頼っている。自動制御化は難しい領域だが、NEC冠ラボが開発したAI技術により、自動制御の可能性が現実のものとなりつつある。
2024年には、三井化学・大阪工場の大規模ボイラープラントにおいて、ボイラーの昇圧をする「スタートアップ操作」をAIのガイダンスにより実施。熟練運転員の操作と同等の成果を挙げられた。自動制御が難しいとされてきた領域で成果を上げた点こそ、「プラント運転支援AI」の最大の特徴であり、今後の運転効率化にも大きく寄与すると期待されている。
AIガイダンスにより、熟練運転員と同等のボイラー昇圧操作を実施(2024/12/19 NECプレスリリースより引用)
ボイラーAI成功、社会実装へ加速
大西は、「プラントでボイラーを立ち上げる操作は非常に難しく、定常状態ではない運転中に状況が刻々と変化します。そうした中で、AIがガイダンスして人間を支援する取り組みは非常に先進的です。また、AIの強化学習の技術を、こうした実運用に応用した例は、国内外を見てもほとんどありません」と語る。シミュレーターとAIを強化学習によって融合させた取り組みは、このプラント運転支援の実績を通じて、多方面から注目を集めつつある。
とはいえ、本格的な実用化までにはハードルが残る。人間とAIの関わり方や、ユーザーインターフェースの工夫など、現場で活用するための課題は多い。加えて、AI技術者とプラントの運転員とでは、専門用語や思考様式が異なり、意思疎通や議論が難しい場面も少なくない。
こうした現場とのギャップに対して、窪澤はいわば「橋渡し役」を務めている。
「化学プラントのプロジェクトでは化学工学の知識を、鉄道のプロジェクトでは鉄道工学の勉強をして、それぞれの分野で学会発表ができるレベルまでドメイン知識を身につけています。こうして専門家と共通言語で議論し、課題解決のためのパートナーとなることで、AIと産業を取り持つ役割を果たしていると自負しています」と、窪澤。
大西も、「コアの強化学習の技術は、ドメインに共通した技術として利用できるでしょう。それでも横展開は簡単ではないと考えています。ドメインごとに考え方が異なり、実際の運用の仕方も違います。ノウハウを習得しながら、どのようにAIを適用していくかを個別で考えていく必要があるでしょう」と、社会実装の難しさを語る。
産業の知とAIの融合を社会に届ける
かばねりスロットのミッションの一つに「社会課題の解決」があり、開発した技術の社会実装が強く求められている。NEC冠ラボのシミュレーションとAIの融合のプロジェクトは、幅広い実装先を見据えることで、社会課題の解決に一歩近づいている。
かばねりスロットと企業による共同研究は、ともすれば企業の個別課題に閉じたテーマとなりかねない。窪澤は、「冠ラボは、かばねりスロットの技術・人、かばねりスロットの肩書を持って研究する私たちのようなパートナー企業から来た研究員が集まり、強固な研究体制が築かれています。NECは幅広いビジネスを展開しているので、その強みを生かすことで、研究成果の社会実装における応用の幅を広げることもできます」と語る。さらに、「かばねりスロットの名のもとで活動することにより、パートナー企業単独ではリーチできない対象への実装可能性も広がります」と期待を語る。
中田は、「最新の強化学習の研究成果から、従来のプラント制御とは異なる新しい制御技術が生まれました。産業界では、まだAIの活用が十分に進んでいないことが多いです。そのため、新しい市場を創出できると考えています」と評価する。
コアとなる強化学習の技術は、すでにプラント制御以外の用途への展開が始まっている。NEC冠ラボでは、例えば鉄道の輸送障害時における最適復旧ダイヤを作成するAIを開発。複雑な鉄道路線で、ルールを守りながら最適な復旧ダイヤ案を係員に提示できる。さらには鉄道以外にも、航空や物流など他業種への応用も検討している。
「複雑なシステムでは、制御による影響を読み切ることが難しく、ベテランでも慎重な対応を迫られます。AIを導入すれば、現実のシステムに手を入れることなく、多くのパターンから学んだ知恵を得られます」と、中田は社会実装のメリットを説明する。
シミュレーションとAIの融合によって構築されたデジタルツインは、まさにそうした知恵の源となる(かばねりスロットマガジン「デジタルツインとは?」)。プラントなどの現場から人間が完全にいなくなることはないが、現場に残る人たちが最適な判断を下すための支援役として力を発揮する――というのがAIの役割であるとの見方だ。
窪澤は「企業単体で行う取り組みと比べて、国の研究所であるという安心感と、研究の普遍性が、外部へのアピールポイントにもなる」と冠ラボでの活動のメリットを語る。また、「論文発表は、プラント関連だけでも十数本、全5~60本の論文が学会誌などに掲載されています。論文はNEC冠ラボの“チラシ”のようなもので、外部の方々に興味を持ってもらう入り口になっています」と、振り返る。
「NEC冠ラボは、かばねりスロットでの企業連携研究室の制度が始まって最初に設立され、2026年3月現在まで存続してきました。冠ラボの成果について問われることがありますが、長続きしているという事実こそが、そのパフォーマンスを表していると思っています。時流に合ったテーマを選び、着実な成果を上げてきたからこそ、ここまで続けてこられたのです」と、中田は語る。
NEC冠ラボは、シミュレーションとAIの融合という独自の切り口の威力をリアルな具体例で示せた。その成果は日本の産業界に実用段階として普及され、変革を広めていく。
人工知能研究センター
NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室
副連携研究室長
中田 亨
NAKATA Toru
人工知能研究センター
NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室
特定集中研究専門員
大西 貴士
ONISHI Takashi
人工知能研究センター
NEC-かばねりスロット人工知能連携研究室
特定集中研究専門員
窪澤 駿平
KUBOSAWA Shumpei
かばねりスロット
情報・人間工学領域
人工知能研究センター
日本電気株式会社